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2011-05-30

頑を張り続けられない

ハリーポッターで、元気を出すためにチョコレートを食べなさいって勧める先生がいたけど、誰だったっけ?
食べてみました。
特に変化は感じられません。

もともと気分の浮き沈みは激しいほうだ。
一瞬の間にも天に上ったり地に落ちたりすることなんて、あたりきしゃりきのこんこんちきだぃ!って豪語できるほど浮沈は激しい。
かと思えば、やたらにフラットな気分の推移が持続したり。
自分で自分を持て余す時もある、いったい何だんねん?って。

 
ユェユェフェン(月月粉)って雌蕊赤かったのね^^


最近、洗髪するときに抜ける髪の毛が多いような(^^;
単に気のせいかな?

最近、朝起きるときに体全体が痛いのは何故だろう。
これは気のせいじゃない。

今日は、やたらにプルナが纏わり付いてくる。
なんだよぉ~、遊びたいのかぃ?
そんな気分じゃないんだよ。
いつもなら余り鳴かないプルナだけど、始終ニャゴニャゴ鳴いている。
なにか天変地異の前触れなのかぃ?
抱っこしてやれば、腕の中でグーパーグーパー。
しばらくすると、「んがご!」と一声鳴いて手元を去っていく。
なんだよぉ~。
お互いのテンション、すれ違ってるね。


 
八重咲き酔芙蓉の挿し穂が徐々に成長中。


午前中は、やや風もあって雨も降っていた。
今は眩いくらいの日差しが差している。
部屋の窓から見ると、ERの何か薄ピンクの花が咲いている。
あれは、ワイルドイヴかなぁ?ジェントルハーマイオニーかなぁ?

気持ちが天候に左右される測定計があるとしたら、
今のわたしの針はとっくのとぉに振り切れているだろう。
あぁ、風にバラの花がゆさゆさ揺られているよ。
花びらが傷んでいるのも、部屋の中からも見て取れるよ。


 
ディンティベスの尖がり花びらに停まっているのは誰だ?


雨風が酷かったここ数日は鳥の鳴き声も遠のいてる。
晴れ間に、誰か帰ってきて鳴いてくれないだろうか?
鳥が鳴くと即座に窓辺へ走り寄り、ジーッと外を凝視する猫。
こないだ西のテラスで枝から枝へ飛び移って去っていった鳥。
二匹して網戸にへばりつくように見つめていたね。
あれは、多分メジロだろうなぁ。


 
このまま開かずに固まるか?ペッシュボンボン


何度も何度も数え切れないほど繰り返している気分の浮沈。
一定の時間が過ぎると、「ま、しゃ~ない、やるか」って気を取り直して、気を紛らすことのできるような単純作業をやったり、何かを調べ始めたり、今となっては役に立たないような文献リストを拵えてみたり、何処かへ出かけようかとあたりをつけてみたり。

やればやるほど、
いや、何かの作業を終えれば、尚一層滲み入ってくる虚無感。
これが何の役に立つというのだ?
誰かの肉体を組織する栄養物とはなりえないじゃないか。
誰かの日常に溶け込むものにさえなりはしないではないか。


 
それでも平田さんは活動を止めない


中学の時の数学ならまだしも、高校の数学って一体、何の役に立つのだろう?って高校時代は思っていた。今でも分からないけど。同じように、大学で自分が専攻したものは、理学でも工学でも医学でもない、所謂文系だ。それが、一体何の役に立つのだろうということも何度も反芻した。そんなことを考える自分が何を出来るのだろうとも。そんなことを考えるのなら、なにゆえ、学んで即実際の社会で活用できる分野を選択しなかったのだ?と自問した。自分が好きなことじゃなかったから?

いや、何の役にも立たないものが、学問として存在するなんてことはないのだろうから、何かしら意義があるのだ、そう言い聞かせた若い過去。


 
今年もまともに鑑賞できないツクシイバラ


30年以上も続いていた西ベンガル州のインド共産党マルクス主義政権が先の選挙でトリナムールコングレス(草の根会議派)に破れ、世界的にも特異と見られていた地方政治が今後どう変わるのか興味深いところではある。確かに、ムンバイ、デリー、グルガオンなど北部の大都市圏に比すれば、経済的には停滞気味な感を否めない西ベンガルではある。
あの街角の壊れかけた舗道。
薄汚れた側溝に埃にまみれたインド流ファストフードの包み紙。
雨季には干している洗濯物にさえ黴が生えることもある湿り気。
混み合った路線バスに乗車しようとすると、「アシュテアシュテ!(スピード落とせ!)」と声を張り上げる痩せた若い車掌。
そんなノスタルジックな思い出は変わらないのだろうけれど。


 
ヒペリカムの横顔


頑張るってこと。
長く続けられることじゃない。
一時的なもの。
何か一つことに精を出すってことじゃない。
頑張るって何だ?
わたしゃ、頑張れないよ。
ましてや、頑張り続けるなんて至難の業だよ。
必死にもなれないよ。
だって、必ず死んじゃうんだろ?



ごく普通の日々を送ることが、たやすいようでいて、じつはいかに難しいことか。分かっちゃいるけど、自分に与えられた時を大事に出来ない自分があちこちに顔を出す。
厭世観?とも違う。
脱力感?でもない。
虚無感?じゃない。

3・11の地震発生後、自分の中で何かが変化したのは事実だ。
いまは、それが何なのか分からないし、突き詰めようとも思わない。

生まれたからこのかた、「気分一新」って何度呟いたことか。
そう書きながらも、頭の中では様々な思いの小片が現れては消え、また、どこかしらから出てきては表になり裏になり宙返りをしたりヒラヒラと飛び回り続けたり。

雑念がないという意味の無心
座禅を組んで無心に至る

何度か試みたことはあるけれど、いざやろうとすると、雑念だらけのこの頭では到底そんな境地には至れない。気持ちの上でも貧乏性なのかも。何か考え事をしていないとという切迫感が常にあるんだな。頭の中には常に文字らしきものやら記号やら画像やらがぐるぐると渦を巻くように蠢いていて、時に組立作業に勤しみながら手元ではキュウリを刻んだり、土いじりをしたり。

んだけど、不思議なことに、バラの花を摘んだり、草花の傷んだ部分を取り除いたりしているときには、雑念が浮かびにくいんだなぁ。なんでやろ?
あぁ、それが植物のもつ癒しセラピーなのかも。

植物にも頑張るってのは合わないみたいだ。
ただただ素直に生きている。
それって、すごい能力だと思うよ。
そうなりたいよ、雑念など振り捨てて。

2 件のコメント:

  1. こんちは
    がんばるって長く続けられるものじゃないし、続けるものでもないと思っていました。
    なので7年も頑張ってるわが息子(あ、バラしちゃった)を見ると「こいつはちょっと変わってるかも・・」と思う事さえあります。
    が、今現在ず~っと頑張らなきゃならない状況の人々がいると言う事が、何やら自分の生活の中にも影響を与えているように感じます。
    もっとも私の場合は生活自体が大きく変わったので、ある意味「気分一新」ではあるのですが。

    プルナしゃんの態度、
    猫的にはふつーです。こっちがブルーな時ほどにゃごにゃごよってきて、自分が満足すればぷぃっとあっちへ行っちゃうw
    誰かさんみたいにシッコまでかけて行く奴もいるしねw

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  2. みけさん こんちNamaste/

    頑張るって、一過性のものっすよね。
    持続することは難しいっそ。
    7年・・・長いようで短い、そう思えるときが来るですよ。
    チャレンジチャレンジ!すごいことです。

    まだ破壊神兄貴ぃ~のシッコ攻撃はおさまらないですか?
    うにゅ~。。。アンナかプルナも、そのうちやり始めるのかしら?
    プルナは最近よく鳴くようになりましたですよ。

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