どうして気持ちが伝わらないのだろう?
いや、気持ちは伝わっているのだろう・・・と思う。
気持ちではなく、考えが伝わらないのだ。
言葉のすれ違い、行き止まり。虚しさの残骸。
そりゃあ、そうだ。
考えること自体、他者と共同作業は出来ないのだから。
考えを巡らす事は独りでやること。
何者も「私」に取って代わることは出来ない孤高の世界。
ぽいと捨ててあたらしいものを買うより、使い慣れたものを手持ちの道具と材料で「取り繕う」こと。たしかにそれは一時的なごまかしにすぎないだろうけれど、日々を送るということは、精神面もふくめて、そうしたささやかな「取り繕い」の反復なのではなかろうか。〔堀江敏幸著『アイロンと朝の詩人 回送電車Ⅲ』より〕
静謐な時間と脳内空間。
同時に生じる僅かな緊張感。
欲しいなぁ。
そんな上質な時の流れが。
そう思って、堀江敏幸さんの散文集を手に取る。
どんな音にせよ、私たちの心の中には、人間が代々伝えてきて私たちにもしっかりと受け継がれている「大記憶」とも呼べるような音があると思うのだ。それらは、お母さんの子守唄とかおばあちゃんが歌ってくれた童謡といった「懐かしい」音とは少し違う。懐かしい音ももちろん私たちの深層に聞こえる大切な音だけれど、私がここで言いたいのはもう少し大きなスケールで聞く音のことである。祭囃子、おもちゃ、花火、楽器、古来から現代まで愛用されている日常の道具の音、たとえばそんな音である。こういう音は、癒しの性格の強い子守唄や童歌と違って、悲喜交々あらゆる気持ちのときに普通に聞こえている。それらの音は、私たちの気持ちにかかわらずいつも同じに響いていることによって、高ぶった気持ちを平常に戻してくれたり、落ち込んだ気持ちを元気にしてくれたりする。〔三宮麻由子著『音をたずねて』より〕
三宮麻由子さんは、4歳の時に視覚を失った。
研ぎ澄まされた感覚。
新鮮な発見。
祭囃子、伝来のおもちゃや楽器。
それらが日本に生まれ育った人の深層に普段の暮らしの音として流れているのなら、そうした音を受けて育つ感覚や感性は、日本的な味付けになって表出してくるのだろうか。
とんとんとん
とんからとん
たんたんたん
たちつてたん
みんみんみん
みみんがみん
えいえいえい
えいやらえい
研ぎ澄ますことの必要を、もう一度感じてみようと思った。
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言葉を"言の葉"と表現すると、また全然違って感じちゃうけど、そのあと、言葉を見なおさなきゃと感じるね♪
返信削除きょうたん おはようのNamaste/^^
返信削除文字にした途端に一人歩きする言葉があって、
口にした途端に制御できなくなる言葉もある。
言葉って全方位外向的な力を持っているんじゃないかと思ったりします。
寒い朝。今日も一日ガンガりましょ~^^